ネパール の姓名 〜タパさん〜 その4

By | 2018-01-14T20:20:39+00:00 1月 14th, 2018|ネパール, 世界の文化・歴史|

タパ一家の権力は宮廷内の親族であったタパ・バラドール・アマル・シン・タパによって高められていきます。ブラ(年長の)・カジ・アマル・サイ・タパは伝説の戦士として今もネパールの英雄的な存在です。タパ家は初期英国-インド間の植民地同盟の力を削ぐうえで重要な役割を果たしました。ウジ・サイ・タパ大佐はジトガドで、そしてカジ・ラナジョル・サイ・タパはジャイタクにおいて、さらにサルダル・バクティ・タパはデウタイにおいて、ラナビル・サイ・タパ大佐はマカワンプルガンジ、ブラ(年長の)・カジ・アマル・サイ・タパはマラオンにおいて戦闘司令官としての務めを果たしました。 ビムセンの孫P・M・マタバルシング・タパはジュング・バハドール・ラナによりそのカリスマ性を知られるところとなり、政権に立ち上りました。このようにして、政治的にタパ時代(タパドム:ThaoaDom <-Thapa + Kingdomの造語と思われる)として知られるタパ家による政権の支配の幕が切られました。 昨今のタパという姓名は多くの職業において見ることができます。マンジュシュリ・タパの”忘れられたカトマンズ:デモクラシーの哀歌(2005)”は2006年レトリーユリシーズ賞にノミネートされた英文学家として知られています。ガガン・タパはネパールの内閣において40年間仕えた政治家として有名です、ウッジュワル・タパはビベックシール・ネパリという政治活動団体の代表者で、若き起業家・また活動家として先頭に立っています。  

ネパール の姓名 〜タパさん〜 その3

By | 2018-01-14T20:21:21+00:00 1月 13th, 2018|ネパール, 世界の文化・歴史|

Thapa タパ(थापा;) Thapa タパ(थापा;) はチェットリに属するネパール民族に広く見られる姓名です。インド・アーリア言語グループに属するカース群カースト、そして、シナ・チベット言語グループに属するマガル群の人々がこれに属します。タパ・マガルは一般的なマガルに属するのに対し、カシュトリア・タパはタパ・カジに属しています。 カシュトリア・タパ家はラナ政権が始まる前にサハ・ディナスティ家、バスネット家、そしてパンデス家とともに政治改革に乗り出した4つの貴族のうちのひとつです。この王家は1806年から1837年と1843年から1845年にかけて支配しました。タパ一族はネパールの統合において大きな働きをし、マッラ宮廷やビジャェプル宮廷において重要な立場を保ちました。この一家はプリティビ・ナラヤン・サハ王の支配の間に急速に力をつけ、ラナ・バハドール・サハ王の支配の間に有力な派を築きます。ラナ・バハドール・サハ王の暗殺ののち、ビムセン・タパは王族に関係する全ての人物の暗殺を図り、タパ一族をネパールの宮廷における最も有力な立場に押し上げました。

ネパール の姓名 〜タパさん〜

By | 2018-01-14T20:21:21+00:00 1月 13th, 2018|ネパール, 世界の文化・歴史|

Thapa タパ(थापा;) タパ は中世のカーサ王国において“パイケラ”(戦士)の位にあった人たちです。カドカ、ラナ、ブッダといった他の姓名のパイケラも存在します。カーサ王国の統治は現代の多くの碑文によっても裏付けられています。ヤス・タパ、ダス・タパ、ラジェ・タパ といった人物は英雄を讃えた石柱にも現れています。戦士タパについてある碑文は次のように言及しています。 幸いなるかな。ビマデヴの息子 ヤス・タパがここに石柱を築かん。1256 サカ期 幸いなるかな。ビマデヴの息子 ダーム・カドカがここに石柱を築かん。1256 サカ期 上に挙げた記述からタパとカドカ(カドゥガ)が単にカース族の国家において同じ父祖から産まれた子孫であることもうかがえます。同様の名前は中央ネパールのマガル民族、モンゴロイド、タルタル民族にも受けつがれました。